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我修院達也

1950年 東京都渋谷区に生まれる。

1956年 映画「異母兄弟」で中村賀津雄の少年時代役でデビュー。
名作「私は貝になりたい」ではフランキー堺の息子役で出演。

 

1960年 ~   
その後、作曲家・北原じゅん氏に師事し、歌、作曲、編曲を学ぶ。
当時のテレビ出演は、「少年ジェット」「怪人二十面相」等、白黒テレビ時代の人気ドラマにに多数出演。
ところが、芝居より音楽・歌の方へ興味を示し傾倒。あらゆるのど自慢や歌まね番組で優勝する。

 

1968年

演歌歌手 「桜 一平」 としてデビュー。霧島 昇、並木路子、淡谷のり子等、先輩歌手の前歌(前座歌手)として全国を巡業。まだ、シンガーソングライターというジャンルが無かった時代に「作詩・作曲・編曲・唄」という幅広い音楽活動を行ったが、業界筋では好評であったのとは裏腹に、「かくし芸」としてショーの中で披露した「歌真似」の方がオリジナル曲よりウケてしまった。
 

1969年

「桜 一平」から  「若戸 章」 に改名。ナイトクラブで弾き語りで唄う一方、キャバレーでは軍歌・演歌・炎歌
・艶歌・怨歌を唄って巡業する。

1980年「若戸 章」から 「若人あきら」に改名。

テレビでかくし芸の郷ひろみ(当時、誰もマネしていなかった)の歌マネをしたのが当たって一躍マスコミの話題となり、フジ・サンケイグループ主催の「放送演芸大賞」ホープ賞を受賞。レギュラー番組も増え、知名度も上がって忙しくなったが、歌マネの仕事ばかりで歌手としての活動が思うように進展せず、「このままでは声帯模写タレントだと思われてしまう」・・・・・と焦るが、本人の意思とは反対に「歌マネの若人あきら」がどんどん一人歩きして行った。
 

1985年

歌マネで売れた事を不本意に感じ、本来の歌手としてオリジナルでの活動を決意。歌マネのイメージを払拭!!  軌道修正のためテレビの歌マネ番組からの出演依頼を全て拒否。
 

1991年(平成3年3月3日)熱海で釣りをしていて事故に遭い記憶障害となるが同年、テレビ朝日「笑いの王国」での復帰を機に作詩・作曲・歌手活動を中心に演技派の俳優として展開。
 

1993年菩提寺の住職にお願いしてお経の中から文字を引用していただき、「我修院達也」と改名。もうこれ以上は芸名を変えない事を誓う。

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